奥に入ると素晴らしい祭壇が!
祭壇のところのキリストの受難、賢者の拝礼シーンなどは宮廷画家であったローレンソ(Lourenço de Salzedo)の作品。
写真を撮り忘れちゃったんだけど、ここから左にマヌエル1世とマリア王妃、右側に息子のジョアン3世とカタリナ王妃の棺が安置されています。
教会に入ってすぐのところ辺には石棺がおいてあって、ポルトガルの偉人が眠っています。
入って右側はこうゆう感じの石棺。
さて、誰でしょう??
筆と竪琴が彫られた石棺は、「ここに地尽き、海始まる」とロカ岬の時にブログで書いたポルトガル最大の詩人ルイス・デ・カインモス(Luís de Camões)の石棺です。
1500年代に生きてた人の石棺かぁ・・・と思うと、なんだかこんなに近くに立ってることが不思議な感じ。
追記
アンデルセンの残した紀行本によると、カインモスは花々とした詩人として死んだ訳ではなかったようです。カインモスの人生を少しお話ししましょう。
1517年に産まれたカインモスは、海難事故で父を亡くしていた。祖先はスペイン人あった。
母は父のいない貧しい生活の中、カインモスをコインブラ大学に送り出したが、恋愛事件や幾つかの風刺詩を発表したことが原因で、アフリカに渡りムーア人との戦いに参加することになる。
このことから「片手にはペン、片手には剣を持って」と自身は言葉を残す。
さて、この戦いの中で大作「ウス・ルジーアダス」は書かれるがその才能は認められず、ゴアに渡り再び戦いに参加することとなる。
この戦いで「名誉ある功績」をたてるが、再びカインモスの書いた風刺詩が国王の怒りにふれマカオに追放となる。
マカオに管理人として5年滞在している間に「ウス・ルジーアダス」の全編を書き上げるのだ。
さて、ついに許しが下りたカインモスは出来上がった「ウス・ルジーアダス」を手にポルトガルに帰国することとなるが、ここで船が難破する。幸いにも原稿を守り抜いたカインモスはなんとか岸にたどり着き救出されるが、なんと管理人としての仕事のことで投獄。
やっと釈放され、ポルトガルに帰り「ウス・ルジーアダス」は印刷されることとなる。
この大作は、大ベストセラーとなり人々の関心を呼び起こした、と記されている。
当時のロマンティックで騎士道精神に富んだポルトガル国王ドン・セバスティアンは、カインモスに年金を与えることを決定する。
アンデルセンは ”なんと少額だったか、デンマークの金額でおよそ334リークスダラーに過ぎなかったのだ” と残している。(日本円で現代の価格で300万くらい?)
しかも国王が死去。ポルトガルがスペイン国王フェリペ2世の支配下にはいるとその年金も撤廃されるのだ。
カインモスは、リスボンの病院で惨めな姿で死んだ、と残されている。
彼の黒人の奴隷は、存命中主人のために大通りで物乞いをしていたのだ。
葬式代も、葬儀のために必要なものを用立てるお金も残っていなかった。
1868年に発表されたこの紀行本に書かれた、カインモスの最後はこうだ。
墓に葬られてる彼の亡骸についてゆくものはだれ一人なく、その墓がどこにあるのか知る者もいない。悲しみと困窮のなか、貧困のどん底のなかで、彼はそのいまわの際まで祖国を愛した。
アンデルセン旅行記-ポルトガル紀行(ET BESOG I PORTUGAL)
さて、もう1つの石棺はルイス・デ・カインモス(Luís de Camões)の反対側にあります。
日本でも有名なこの人は誰でしょう??
歴史の教科書にもでてきたアノ人です('ω')
インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の石棺です!
石棺にはキャラベル船が彫られています。
この船でインドまでいったんだぁ、すごい大きい帆船だったんだろうなぁ、とちょっと想像してみます。
ちなみにヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)さんは1524年12月25日にインドのコチンで亡くなりました。
コチンでお葬式が執り行われた後、埋葬されたました。その後移動してジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jerónimos)に来たんです。
余談ですが、別の時に行った時はミサ中で途中からカトリック以外の人は入れない感じになっていました。
司祭様がお話されている「教会の本来あるべき姿」っていうのもまた幻想的で、威厳があって、素晴らしい空間でした。
機会があったらぜひミサの日に行ってみてください(*'ω'*)
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